考える葦

(以下は、被災地を支援する様々な活動、および震災に関連した報道すべてに対して、私なりに考えた事の、とりあえず言葉に出来る部分をまとめてみました。文章としてまとまったのは、2012/05/03と記録にあります。)

 

 

「考える葦」

 

 

今回の震災で、地震津波など巨大なちからを目にしたからか、この自然のなかで人間はひどく弱々しい存在だと、無力だ、という意見を、私は何回も聞きました。例えるなら、河原に生えている葦みたいに。確かに、これを殺すために自然は特別な武力など、全く必要ありません。ほんの少しの水や日照りだけで、これが死ぬには、もう充分なのでしょう。

 

 

しかしながら。地震津波などで、自然のちからが人間を押し潰したとしても、人間には、人間を押し潰したちからよりも尊いところがある。そのように私は思っています。何故なら、人間は自分自身が死ぬことと、自然のちからと比べたら人間の存在が小さいことを、ちゃんと知っているからです。

 

 

いくら自然のちからが大きいとしても、葦とは違い、人間は考える事が出来ます。そこのところが、人間は、自然の現象(および葦とか他の全ての動物植物など)と、決定的に違います。地震津波も大雨や日照りも、そういう自然現象は、何も知りはしません。どれほどのちからを振るっている瞬間でも、自然現象は、何も考えたりしません。何かを知り、何かを考えるのは、この世で、ただ、人間だけです。だから、もしも人間に何か素晴らしい価値があるとしたら、それはきっと「知ること」や「考えること」のなかにある、と私は思います。この宇宙で人間だけが、調べたり悩んだり考えたりします。だからこそ人間には、人間だけにしか無い価値が生まれるのだろう、と私は思います。

 

 

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さてさて。震災は、地震の予測とか、津波の対策とか、被災瓦礫の処分などなど、解決の難しい課題を私たちに突きつけました。なかでも今回特に問題解決を難しくしているのが、放射線関連です。

 

 

放射線の危険については、現時点で、色々な意見や感情があり、根深い不信と対立があります。でも、そもそも放射線とは何か?どういうところが危険なのか?どうやって計測し、危険を減らしていく方法には何があるのか?こういう疑問のひとつひとつを調べて、正確な情報を自分自身で積み上げる事によって、根本的な解決が見えてくるのだろう、と私は思います。

 

 

水戸黄門などの時代劇みたいに、どこかの偉いひとが決めた解決方法だから従うのではなく、あくまでも私たち自身が調べて考えて、放射線のものさしを決め、避難なり除染なりまたは何もしないなり、する問題であろうと、私は理解しています。

 

 

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そして、実はこれは放射線に限った話では無くて。財政健全化とか、エネルギーの確保とか、年金でも教育でも外交防衛農業その他の何でも、正しく知ることと、きちんと考えて自分なりの物差しを作ることは、現代における複雑で多層に渡る問題を解決するため、どうしても必要な工程なのでしょう。

 

 

だから、もっと、ずっと、私は勉強しよう。こんな決意をしました。

 

 

 

(この写真は2011年の7/17に南アルプス赤石岳(あかいしだけ 3120m)頂上で、私が撮りました。いろいろな願いと祈りを込めて。)

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