元号と、西暦(というかキリスト教におけるグレゴリオ暦)。

まさひとです。こんにちは。新年おめでとうございます。

 

そして、何だか月並みな表現ですが、平成28年(2016年)が少しでも良い一年になるよう、私も願っています。

 

 

 

平成27年(2015年)をふり返るなら、国内のニュースだと、9/9~11にかけて起きた関東や東北の水害でしょうか、あの一連の映像が私には印象深いです。

 

また海外というと、個別の事件とかニュースではなくって、中近東の不安定化とでも言えば良いのかな?シリアに限らずエジプトでもリビアでも、西欧側が問題視してきた中近東の独裁国の改革が、ただ独裁者がいなくなっただけでは全くハッピーとは程遠くて。結果として、それら当該国では社会の大変な混乱や無秩序と、更には多くの死者を招いてしまった事でしょうか。

 

西欧というか、特にアメリカなのですが、戦後の日本の統治があまりにも成功した体験から、おかしくなっている様な印象が私にはあります。無理だって、やめておけって思います。だって、イラクでもアフガニスタンでもリビアでも、そこは日本じゃないんだから。理想は大事かもしれませんが、あまりに無邪気に他の国へ理想を広げようとし過ぎるのは、ちょっとどうなのよ、です。もちろん独裁が良いと言っている訳ではありませんが。

 

 

 

さて。このブログでも、新年にふさわしい話題や写真でもあれば良いのですが、私にそんな特別の物はありませんので。ここはひとつお正月を意識して、元号と、西暦(というかキリスト教におけるグレゴリオ暦と呼ぶほうが正確かな)について、私の感じていることを書いてみます。

 

元号という制度については、とりあえずウィキのリンクだけ貼っておきます。手抜きだなあ。

元号 - Wikipedia

 

 

 

毎年この年末年始になると、もういい加減に元号みたいに面倒な制度をやめて、西暦だけに制度を一本化しようという意見が出てきます。まあ、どうしても元号は、例えば明治や大正における元年の5年前ってどう表記すればいいのかパッと分からないですし、今から50年後もどう表記するのか誰にも分からない訳です。

 

あとは、いま日本の国外のかたがたも増えていて、とにかく説明が面倒くさい面もありますから。実際に元号が変わった場合の、印刷物の回収だって資源の無駄じゃないかって思えば、やめようって意見が出てくる事は仕方ないのでしょう。気持ちは私にも理解できます。

 

しかし、どの国でも企業でも家庭だって、他の国や企業とか家庭には強制しないけれど、身内だけで用いる「あれから何年目」という表現があるのじゃないか、と私は思うのです。

 

 

 

元号制とは、例えばこれが家庭だったら、どういう表現になるのかというと。私たちふたりが結婚して何年目に、最初の子供が生まれて何年目に、引っ越しをして何年目に、次の子供が生まれて何年目に、という感じになるのかと思います。

 

同様に元号制って、例えばこれが企業だとしたら、どういう表現になるのかというと。九州で創業して何年目に、本社を大阪へ移して何年目に、社長が二代目に代わって何年目に、本社を東京へ移して何年目に、という感じになるのかと思います。

 

ここで、こういう元号というか「あれから十年目」みたいな表現を使う場合に大事なことは、あくまでも身内が身内のために使うものさしだ、という点でしょうか。

 

 

 

だから、例えばこれが家庭だったら、自分たちではなくどこか他の家庭を基準として、子供が生まれて何年目だとか家を建てて何年目だとか、そんな表現がでてきたらやっぱりおかしいと思う訳です。

 

同様に、例えばこれが企業だったとしても、自分の企業ではなくどこか他の企業を基準として、創業してから何年目に、社長が交代して何年目に、って表現されてはやっぱりおかしいと思う訳です。

 

ただし。元号制と同じようにあれから何年目という表現では、例えばこれが家庭でも企業でも何でも、そもそも基準点が発生する5年前や10年前をどう表現すればいいのか、また、存続しているのかどうかさえ分からないような今から50年後などをどう表現するのが妥当なのか、正解となる表現は存在しない訳です。

 

 

 

そもそも。いわゆる西暦だって、これが考えられて導入された当時のローマでは、「ディオクレティアヌス皇帝が治世をして何年目」という表記が当たり前でありました。しかしながら、このディオクレティアヌス皇帝はキリスト教徒を、大規模に迫害したのです。

 

だからキリスト教徒たちは、キリスト教徒の歴史を記録する際に、「(いまキリスト教徒を大規模に迫害している)ディオクレティアヌス皇帝が治世をして何年目」ではない表現を求めたため、いわゆる西暦で記録するようになった経緯があります。

 

西暦とディオクレティアヌス皇帝については、ウィキのリンクで申し訳ありませんが貼っておきます。すみません、手抜きです。

西暦 - Wikipedia 

ディオクレティアヌス - Wikipedia

 

 

 

だからディオクレティアヌス皇帝が、キリスト教徒を大規模に迫害したために、結果として西暦というかキリスト教暦がこうやって残った訳であります。もうこれは皮肉なのか、当然の結果なのか、私にはよく分からないけれど、とにかくそういう経緯なのでした。

 

 

 

 まあ、でも。アメリカや西ヨーロッパみたいにキリスト教が一般的な国であれば、キリスト教グレゴリオ暦を用いる方が、たぶん無理がないのでしょう。

 

逆に、キリスト教とはいえ正教の人たちであれば、グレゴリオ暦が一般的に使われている訳でもありません。

 

更に言えば、ユダヤ教イスラム教各会派が一般的な国などは、キリスト教暦をみずから好んで使うはずもありません。もちろん仏教徒が一般的な国でも、ヒンズー教徒が一般的な国でも、キリスト教暦をみずから好んで使うはずもないという状況は同じです。

 

 

 

つまりは、どれが正解だとか、何が間違っているとか、ではなく。それぞれが自身で、それぞれに用いるものさしを決めましょうね、という事なのでしょう。

 

今日から2016年ですが、これをアメリカがアメリカ自身における表現として、建国何年目と呼ぶのもアメリカが決める事でしょうし。韓国が韓国自身における表現として、独立何年目と呼ぶのも韓国が決める事でありましょう。もちろんあんまり実態と違いすぎるなら周りから指摘されるのかもしれませんが、あくまでも本来はそれぞれの主体が主体となって決める話であって、他人が口を出すべきじゃない気がします。

 

 

 

話を戻しますが。結局のところ、いわゆる西暦はとても便利だから、これを便宜的に併用するのは誰であれ別にアリだ、と私は思うけれど。ずっと続いてきた元号という制度を、わざわざ廃止してまで日本が制度を西暦だけにする方が本当に良いのかと問われたなら、私としてはどうにも賛成しかねる、ぐらいでしょうか。

 

まあ、絶対に反対している訳でもないけれど。

 

念のために付け加えます。もしも世界中で将来に、キリスト教におけるグレゴリオ暦を用いる国が日本ひとつだけになったとして、それでも、日本だけはキリスト教におけるグレゴリオ暦を用いるのだという主張であるのなら、私としても賛成はしなくても理解しますし、主張は主張として尊重します。