刀夷の入寇(といのにゅうこう)

まさひとです。こんにちは。

 

このたび可決成立した安全保障関連法案そのものや、関連のニュースについて、私も幾つか思ったり言いたい事があります。

 

 

 

賛成でも反対でも、せめて法案は読んでからにしようよ、とか。現行法案の改正が中心で、そりゃあもちろん改正しても良いけれど、こんなに大騒ぎするほどの内容でもないし、とか。参議院の改選が近くなってきたためとはいえ、政策よりも選挙受け&メディア受けを優先してパフォーマンスに走る議員は、まるで政治乞食だな、とか。もともと外交防衛にも安全保障にも興味や関心が無いひとが、テレビや新聞とか雑誌では解説するものだなあ、などなど。

 

でも。山登りにおける地図読みとか、他にも自分自身の譲れない部分についてブログへ書くのならともかく。このたび可決成立した安全保障関連法案については、自分よりもはるかに詳しい人がそのうちきちんと解説を書いてくるだろうと思います。

 

 それで。当ブログへ色々と思いを書いてましたが、これらは全部削除して、刀夷の入寇(といのにゅうこう 1019年というよりも寛仁三年というべきか)について、改めて今回は書いてみます。たぶん世間一般には、この事件って、ほとんど知られていないと思います。時代としては平安時代の半ばです。

 

 

 

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刀夷の入寇とは、日本の対馬および壱岐に、大陸から女真族が侵略してきたものでした。被害は甚大でした。手抜きですみませんが、ウィキのリンクだけ貼っておきます。

刀伊の入寇 - Wikipedia

 

 

 

この女真族の侵略に対して、太宰府権師の藤原隆家は地元の豪族たちとともに、激戦を繰り返して、ようやく撃退しています。

 

本来なら、異民族による侵略に対しては、国家の正規軍が対戦します。しかし平安時代の日本は、正規軍という制度そのものを廃止しています。だから、地元の豪族という私兵が戦闘の中心になりました。

 

 

 

この、刀夷の入寇を撃退した太宰府権師の藤原隆家や地元の豪族に対して、時の朝廷がいかなる評価をしたのか?というと、何もしませんでした。

 

というよりも。大納言公任と中納言行成は、せめて何かしら褒めてやるべきだという声に対して、そんな事をする必要など全く無い、という考えでした。

 

 

 

念のために申し添えますが。朝廷には事態の経緯が正確に伝わっていました。また、賊の追撃を壱岐対馬の日本領内にとどめて、高麗の領内には入らないように命じるなど、隆家の判断は最後まで適切だったと現代でも評価されています。

 

しかし。それでも朝廷は、隆家たちの奮闘を頑として認めないばかりか、むしろ余分な事をしたのだから処罰するべき、という考えでした。

 

 

 

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もう少し時代は後ですが、元寇が起きます。この国家的危機を日本側は、当時の鎌倉幕府の執権である北条時宗が中心となり、武士たちの奮闘と非常な幸運が重なって撃退しています。

 

では。こちらの元寇において朝廷は、北条時宗や武士たちの奮闘をいかに評価したのかといえば、やっぱり全く評価なんてしていません。

 

 

 

朝廷が元寇の撃退に、何が最も効果があったと考えたのかといえば、亀山上皇が博多にある筥崎宮に、敵国降伏の額を奉納した事でした。

 

また、北条時宗については従一位と表記されている資料もあります。念のために申し添えますが、北条時宗の功績を認めて、従一位を贈ったのは明治天皇です。

 

 

 

そんなこんなで。異民族による侵略を実際に対戦して撃退した人たちについて、功績を全く認めないのが、朝廷の伝統的な考えでした。

 

そして、では撃退に何が最も功績をあげたのかといえば、敵国降伏の額を奉納した事であり、首都の名前を平安京とする事であり、現代風に表現すれば、とにかく平和を祈念する事でした。

 

 

 

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毎年お盆になると、平和祈念が行われます。残念ながら私たちは、平和祈念に限らず、私たち自身の思想の歴史的な経緯をあんまり知りません。

 

だから、私は空想します。もしも亀山上皇明治天皇が、北条時宗の功績を認めるかどうかで議論したなら、どういう内容になるだろうって。

 

 

 

亀山上皇たちの言い分は、たぶんこんな内容になるでしょう。

 

そもそも世の中に軍隊があるから、戦争が起こるのだ。平和を祈念するのなら、軍隊なんて存在してはいけないし、だから軍の功績を認めるなど論外だ。

 

首都の名前を平安京に変えるとか、平和を祈念する額を奉納とか、元号をそれらしいものに変えるとか、方法は色々あるけれど。とにかく「平和を祈念する思いが充分に強ければ、その結果として世の中は平和になると、もう最初から決まっている」。

 

だから、北条時宗であれ藤原隆家であれ、実際に対戦した軍の功績を認める必要など全く無い。平和をもたらすためには、ただただ平和を祈念するべきだ。

 

 

 

現代だったら、亀山上皇たちは、きっとプラカードに「平和」と書いて行進するんじゃないでしょうかね。

 

 

 

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しかし。ここまで書いて、自分自身でも思うのですが。敵国の軍隊が現実に博多湾へ上陸してこようとしているのに、何らかの防衛手段を採らないまま「敵国降伏」の額を掲げただけで、本当に敵国が降伏すると亀山上皇たちは思っていたのですかね。どうなのかなあ。

 

もし本気で思っていたのだったら、「敵国降伏」だけに限らず、地震津波も火山も伝染病も台風も発生を禁止するような額とか何かを絶対に出している気がするのだけど。