2/3に、清洲城跡から美濃路を歩く。

まさひとです。こんにちは。

 

 

 

 

日々、様々なニュースを見聞きしていると、こんな私でも時々思ったり考えたりすることがあります。

 

例えばちょっと前に、安楽死を合法化しようという意見というかニュースというかを見かけました。これ、いつか合法化されれば理想的だとも思いますが。しかし現状のままだと、障碍者や問題を抱えているひとが、周りから強制的に安楽死を申し出させられる展開が目に見えているために、どうにも賛成しようがないのですよ。

 

他にも狂犬病予防とか、HPVワクチン接種とか、石川県というか能登半島の復興とか、考えたり調べたりしています。

 

 

 

 

さて、本題へ戻ります。2/3に私はひとりだけで、清洲城跡から美濃路を歩いてきました。

 

12月から私は膝が痛くなりました。だから、本格的な山登りは難しいです。とはいえ、どこかに出掛けたい気持ちはあります。膝の関節の周りにある筋肉だって、ずっと引き籠っているのは良くありません。

 

というわけで、今回の企画となりました。標高差をほとんどゼロにして、荷物も軽くして、昔の街道を歩くのです。

 

ここだったら、途中あちこちに見どころがあります。こういう展開でもなければ、あんまり来ることもなかったでしょう。清洲公園では梅や椿が咲いていて、ちょっと嬉しかった。

 

当日のGPS記録はこちらです。

清州城から美濃路を歩く - 2024年02月03日 [登山・山行記録]-ヤマレコ

 

 

 

 

では、写真を見ていきましょう。

 

 

 

 

清洲駅を8時半にスタートします。歩き始めてみたら、ゆるくカーブしていて、昔からの街道っぽい面影があります。寒いけれど風が無くてラッキー。出来るなら駅前の喫茶店へ寄りたかったけれど、混雑していて時間がかかりそうだから諦めました。

 

 

 

清洲宿の本陣跡です。残念ながら濃尾地震で建物は倒壊していて、僅かに残ったこの正門だけが縮小して再建されています。

 

 

 

清洲公園に着きましたら、梅がちょっと咲いてました。持ってきたアップルパイとホットコーヒーで、ひとやすみしています。写真の右奥ですが、信長と濃姫銅像があります。とはいえ濃姫は、実際にはほとんど記録が無くて。織田信長と結婚したあとどこで何をしていたのか、全く分からない存在だとか。

 

 

 

五条川の水辺の散策路を通って、清洲古城跡公園にも来てみました。

 

 

 

清洲古城跡公園ですが、清洲城の概要が建っていました。歴史的な変遷などは分かりますが。そもそもなんだってこんな、五条川が氾濫したら直撃されるところに築かれたのか、不思議です。

 

 

 

本丸東面を発掘調査した際に出土した石垣ですが、五条川沿いのところへ移築されていました。石垣の奥や下側など、興味深かった。

 

 

 

では、再建された清洲城天守閣へ進んでいきましょう。そこでは刀剣や鎧兜も展示されていますが、映像が多めでした。名古屋城が築かれる前まで、ここ清洲城がある一帯が、尾張の国において政治と物流と文化の中心地であったわけです。

 

 

 

これは天守閣の最上階から南側を見ていますが、名古屋市の中心街にある高層ビルが見えます。濃尾平野って高い山がほとんどなくて、ずっと平らなところの中に清洲城が築かれていたんだなと実感します。

 

 

 

清洲城をあとにして美濃路を歩き、日吉神社へお参りします。大きくて、古い神社でした。2/3だから境内では豆まきと、何かの神事が執り行われていました。

 

 

 

街道を歩いていると時々、古い建物が残っていますが。これらはいつの時代の建物なのだろう。江戸時代の建物とは思えなくて、昭和の頭ぐらいなのかな。

 

 

 

昼ご飯ですが「やわらかとんかつ彩」さんにて、チキンカツの定食を頂きました。私が住んでいる所の周りに飲食店は全くないので、こういう地域がとてもうらやましい。

 

 

 

須佐之男神社にお参りします。須佐之男神社の、線路を挟んだ奥には、豊和工業株式会社がありまして。いつか何とか見学してみたいところです。

 

 

 

街道っぽい。

 

 

 

古民家カフェ「みどりや」さんです。13時を過ぎていたので、もう閉まっていました。ううむ、残念。

 

 

 

松原神社にも、お参りしています。こういう神社だったら躊躇せず、お参りしていますが。お寺だと、どこまで勝手に入っても良いのか毎回迷ってしまいます。

 

 

 

本日の最後の見どころで、問屋記念館にお邪魔します。青果市場「下小田井の市」の創設者のひとりである、山田九左衛門家の住居を移築復元したもの、です。中へ入ってみると、手前には土間で、奥に仕事する和室があります。二階には入れませんでした。

 

 

 

靴を脱いで、仕事する和室の奥に進みます。趣味のいい坪庭があり、そのさらに奥には生活する和室があります。建築されたのは明治初期だそうですが、江戸時代の様式を色濃く残してます。



 

あとは二ツ杁駅(ふたついりえき)へゴールして、どこへも寄り道せずに帰りました。お疲れさまでした。なかなか楽しかった。この先に続く美濃路へも、いつか来ることがあるかな。

 

 

 

 

今回も感想を4点挙げておきます。

 

 

 


①街道としては、ゆるくカーブしたり僅かに面影が残っているけれど。濃尾地震や戦争それから近代化によって、建物はあんまり残っていません。まあ、感動的な街並みとかではありませんが。これはこれで楽しかった。ごく身近なのも良かった。

 

 

 


清洲城に限らず、こういう現代に再建された天守閣というのは、歴史や地域それに城郭を紹介するパンフレットなどの、もっとずっと大掛かりなやつ、という位置づけになると私は理解していますが。これでいいのかな。

 

実際には微妙だったり、残っている城郭の遺構を破壊して再建してしまう場合もあるので。

 

 

 


③やっぱり膝は、ちょっと痛いです。今後の膝の状態を考えるなら、もう本格的な山登りは難しいです。とはいえ街道歩きも、膝には負担があるわけで。だったら、何か膝に負担のぐっと少ないことを、真面目に探していく方がいいのかな。これから20年間ぐらい、ずっと続ける何かを。

 

 

 


④本格的な山登りに行くと、どうしても食事って、出来る範囲で何とかするとしか言えませんが。今回のような街道歩きなどだと、ごく普通の飲食店へ入って、美味しく温かい食事が苦労せずに出来るわけです。当たり前なのですが、これは大きな違いでした。

 

逆に。トイレはその辺で済ませるわけにもいかないので。あらかじめ場所を調べておき、計画的に寄り道する必要があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

1/14に石脇城跡など、焼津市を見てまわる。

まさひとです。こんにちは。

 

 

 

 

元旦に能登で大地震が起きて、1/21の本日で20日めになります。自治体や自衛隊とか、警察消防それに電力各社による支援へ、心から感謝します。

 

今回、自治体や自衛隊とか、警察消防それに電力各社からは、こういう場所でこういう支援を行っていますというアピールが、毎日多く発信されています。

 

かつて私は、こういった活動のアピールって本当に必要なのかな、どうなのかなと考えていましたが。今では断固、活動をアピールするべきだと思います。公的な組織に限らず、私達が生活している社会の基盤を維持管理している全ての組織が、です。

 

ところで。いわゆる新電力の組織も、被災地で復興支援をしているのでしょうか?

 

 

 

 

さてさて、本題へと戻ります。1/14に私は大先輩とふたりで、石脇城跡など焼津市内あちこちを見てまわりました。

 

1/13~14に静岡へ帰省したのですが、元々だと1/14は静岡県中部で仲間たちと山登りを予定していました。しかし。12月に私の膝が痛くなってしまったため、ギリギリになって中止しています。

 

山登りは難しいとしても、どこかへ行きたい気持ちは強くて。大先輩に相談したところ、今回の焼津市内あちこちを見て回ろうと話が決まりました。

 

 

 


まず石脇城跡と浅間神社を歩いてから、次に歴史民俗資料館と小泉八雲記念館を見て、どこかでお昼ご飯を食べてから、静岡県水産技術研究所「うみしる」と深層水ミュージアムへ行く計画でした。

 

石脇城跡を見る時に車は、日本坂PA下り線のぷらっとパークへ停めています。ここのトイレが他の駐車場のどこよりも綺麗だから、ここにしました。


石脇城跡を見る時にヤマレコでGPSを記録するなんて、ちょっとどうかなとも思いましたが。ひとつ試しに今回やってみました。

石脇城跡など、焼津市を見てまわる。 - 2024年01月14日 [登山・山行記録]-ヤマレコ

 

 

 

 

では、写真を見ていきましょう。

 

 

 

 

日本坂PA下り線のぷらっとパークに、運よく駐車スペースが空いていたので停めさせてもらいました。歩きだすと、けっこう寒かった。旗掛石まで来てみると、年が明けたから縄も新しくなっています。かつて徳川家康が、しばしば原川家を訪れた際に、旗をたてかけていたと伝わる岩です。

 

 

 

 

さて、まず。石脇浅間神社へ初詣でのお参りをします。この時、多くのかたがたが掃除されていました。地元で愛されている神社なのだなあ。

 

 

 

 

では、改めて石脇城へと向かいます。住宅の隙間みたいなところから入っていくと、この石垣が現れます。とはいえこの石垣は戦国時代の当時のものなのか、後の時代の石垣なのか、私には良く分からなかった。

 

 

 

 

石脇城跡の南側ですが、広い曲輪となっていて、城山八幡宮が建っています。一段下がったところにも曲輪と石垣が見えました。

 

 

 

 

急な階段を登って北側の曲輪に出ると、見晴らしが素晴らしい。この石脇城跡のすぐ近くを、焼き津辺の道(やきつべのみち)と、日本坂越えの東海道が通っています。ふたつの街道を監視するための城でしょうか。

 

 

 

 

北側の曲輪には、この大日堂があります。かつてここには木食上人の仏像が2体収められていた、現在は歴史民俗資料館が管理している、という理解で良いのかな。

 

 

 

 

これは城跡から南側を見ています。今川家の家督争い「文明の内訌」の時に、後の北条早雲が、ここ石脇城にて龍王丸派の武将として活躍します。結局は龍王丸派が勝利して、早雲は龍王丸の後見人になります。

 

 

 

 

移動して。次に、「井伊直孝産湯の井」へ来ています。写真を撮るだけのつもりが、たまたま通りかかったご近所の詳しいかたに声をかけていただき、パンフレットを頂きました。

 

 

 

 

パンフレットをいただいたかたのオススメで、急遽、こちら若宮八幡宮にも伺いました。そうしたら、境内の説明には大先輩の先祖の名前があり、何とも不思議な展開でした。

 

 

 

 

さらに移動します。焼津文化会館に併設の、焼津小泉八雲記念館へ行きました。小泉八雲って、耳なし芳一ぐらいしか読んだことがありませんが。焼津市にゆかりのある作家なのでした。

 

 

 

 

焼津文化会館の2階にある歴史民俗資料館には、さっき見てきた石脇城跡や井伊直孝産湯の井の説明もありました。写真は資料館の階段の前で撮りましたが、朝日岳や高根山などが見えます。

 

 

 

 

また移動して。昼ご飯は、とんかつの「蘭亭」さんへ行きました。私はミックスフライの定食を頂きました。1350円だったかな。ここでは何回も食べていますが、どれもとっても美味しい。

 

 

 

 

大先輩を西焼津駅へ送ってから、あとは深層水ミュージアムへ行きます。駿河湾および深層水に関する映像や、深海の生物を飼育している水槽に、深海ザメのラブカの標本などがあります。

 

 

 

 

斜め向かいにある、静岡県水産技術研究所「うみしる」にも寄ってみました。水産業の現状や、水産・海洋技術研究所の研究成果、水産業を取り巻く環境などを紹介する展示施設です。

 

 

 

 

あとは島田市内へ寄り道して、愛知県内まで問題なく帰宅しています。

 

 

 

 

今回も感想を4点挙げておきます。

 

 

 


①特別な見どころなんて何もないと思われがちな、ごく小さくて地味な焼津市内ですが。実際に見てまわると、これはこれで興味が尽きませんでした。他の都市や地域と比べてどうこうではなくて。焼津市だったら、焼津市にあるものを見てまわろう、と思っています。

 

 

 


②予定していなかったけれど、近くだから、井伊直孝産湯の井へ行きまして。写真だけ撮って次に向かうつもりでしたが、たまたま通りかかった地元の詳しい方から、ここのパンフレットを頂きました。そのかたに強くオススメされて、若宮八幡宮にもお参りしたところ、若宮八幡宮に建てられていた解説に、大先輩のご先祖の名前がありました。

 

ちょっと不思議な展開でした。

 

 

 


③結果として大先輩とふたりで、今回の焼津市内あちこちを見てまわったのですが。ひとりだけで見てまわるよりも、ずっと印象深いものになりました。山登りではないから、ちょっとどうかなあとも思いましたが。相談してみて良かった。

 

 

 


④たまたま私は転勤して、いま愛知県内に住んでいますが。愛知県内というか中京圏だって、史跡とか文化財とか見どころがあちこちにあります。愛知県内にいるあいだに、中京圏であちこちを見てまわりたいものだ、と思いました。